||   enough FOR TODAY / 今日はここまで   ||


踊りの練習は、ときには深夜すぎまでかかることがある。 だが今日、ぼくは10時で練習を切りあげた。「よかったら、今日はここまでにしたいんだ」と、ぼくは上を見上げながら言った。
   コントロール・ルームから声がする。「大丈夫か?」
   「ちょっと疲れた」とぼくは答える。
   ウインドブレーカーを引っかけ、足早に廊下へむかう。後ろから小走りに、ぼくを追ってくる足音がする。誰の足音かは、振り返らなくてもわかっていた。「わかってるわよ」ぼくに追いつくと、彼女が言った。「教えて、何があったの?」

ぼくは一瞬、返事につまった。「いや、自分でもよくわからないんだけど。今朝、新聞で一枚の写真を見たんだ。イルカが投網のなかで溺れている写真さ。体が網にひっかかっていて、みるからに痛々しそうだった。目は虚ろに見開かれていたけれど、口元にはイルカがどんなときでもけっして忘れることのない、あの微笑が浮かんでいた。死ぬ間際だというのにね……」とぼくは思わず、声を震わせた。
   彼女はそっとぽくの手を取った。「ええ、あなたの気持ちはよくわかるわ」

「いいや、わかっちゃいないよ。ぼくはただイルカがかわいそうだとか、何も罪もない生き物の命が奪われたことをしっかり見据えなくちゃいけないとか、そんなことを言ってるんじゃないんだ。イルカは踊るのが大好きだ。海に生きる生物のなかでも一番踊りが好きで、踊ることは彼らの特性なんだ。ぼくらが目をみはっているあいだも、彼らは何ひとつ求めず、波間を無邪気にはねまわっている。彼らは船を追い越したりするけれど、ただスピードを競っているのではなくて、ぼくらにこう言おうとしているんだ。『楽しくやろうよ。針路をそれないように注意しなきゃいけないけど、舵をとりながら踊ってごらん』とね。
   それでぼくは、リハーサルの最中にこう考えたんだ。『ぼくらは踊りを殺そうとしているんだ』と。そしたら、どうしても踊れなくなってしまった。踊りを殺すなんて、ぼくにはとてもできない。けれど、せめてほんの少しだけ踊るのをやめて、思い出にひたることぐらいはできる。わかるかい?」

彼女の瞳は優しかった。「ええ、なんとなく。たぶん、この問題を解決するには何年も時間がかかるでしょうね。いろんな利害関係がからんでいるから。でも、明日すぐに問題を改善しようなんて考えないほうがいいわ。あなたは今すぐ答えをだしたいと思っているでしょうけど」
   「ああ」と答えながら、ぼくは彼女のためにドアを開けてやった。「ただちょっと思いついただけさ。今日はもう、ここまでにするよ」